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Voor een verloren soldaat フォア・ア・ロスト・ソルジャー

オランダ映画 (1992)

20世紀後半のオランダを代表するバレエの振付家であり作家でもあったRudi van Dantzig(1933-2012)が、1986年に発表した自伝的同名原作を元に映画化された作品。原作の内容は、本人の少年時代を忠実に描いたものとされているが、映画化にあたっては大幅に簡略化されている(右の写真は1944年のRudi van Dantzig)。原作が、第1部 飢えた冬(12章87ページ)、第2部 解放(14章141ページ)、第3部 自由の喜び(5章36ページ)からなる計264ページの長編小説なので、そのままでは映画化できないからだ。それに、第2部でカナダ兵のウォルトが登場する場面では、ポルノまがいの記述があるので、12歳の少年ユルームが主人公の映画として成立させることはできない。それでも、この映画は、ウォルトによるユルームの児童虐待が問題視された。相手が変声期前の少年となると、これまで作られた映画はほとんどないに等しいと言ってよいが、それは、世間がその種のものを許さないからであろう。それにもかかわらず、この映画は、今から30年近く前に作られている。問題となるシーンは、直接描写を避け、原作と違い、楽しい雰囲気に変えているが、原作は、苛酷で “許されざる” 性的虐待でしかない。この苛酷な体験によって、少年がホモセクシャルな青年となり、勉強は大嫌いでもバレエが好きで、オランダを代表する振付家になったという経歴は、振り返って見れば、悲劇を成功に変えた “許され得る” 出来事だったのかもしれない。この映画のDVDは今でも2002年のバージョンが販売されているが、画質が悪く、とても使いものならない。それに、付属している英語字幕はめちゃめちゃ。あらすじの作成にあたっては、ドイツ語字幕を参照した。また、このサイトでは、原作が存在している場合には、可能な限り対比することを原則としているので、今回は、楽天Koboで入手したデジタル版(オランダ語)を利用した。ただ、読んでみると、第2部はポルノ小説〔とは言っても、ポルノなど読んだことはないのだが…〕まがいの内容で、気持ちが悪くなった。

ナチス占領下のアムステルダムに住む12歳のユルームは、市内の食料難が激しくなったため、食料事情の良い北のフリースラントに疎開させられることになる。ユルームを受け入れてくれたのは、漁師の父をもつ5人家族で、ユルームは何一つ不自由のない暮らしを始めることができた。一家は、フリースラントの人々がそうであるように、フリジア語を話す敬虔なカトリック教徒で、ユルームにはどうしてもそれが馴染めない。だから、大切に扱われているのに、結構自分勝手で、地元の子供たちと交わろうともしない。友達といえば、アムステルダムから一緒に疎開してきたヤンがいるくらい。そんなユルームに大きな変化が起きる。連合軍がオランダを制圧し、カナダ軍の一小隊が村にも入ってきたのだ。小隊長のウォルトは一目見てユルームが気に入り、心の中に空白のあったユルームの気を惹くことに成功する。最初は、たわいもない戯れでしかなかったが、ある日、一線を越え、ウォルトはユルームを優しく犯す。しかし、ユルームはウォルトに心酔していて、それが異常な行為だとは思わない。そして、カナダ軍はすぐに撤退し、ユルームはウォルトを永遠に失ってしまう。しかし、ウォルトとの体験が、ユルームをホモセクシャルな大人に変え、バレエの振付師として成功を収めるに至らしめる。

ユルーム役のマーティン・スミット(Maarten Smit)については、“出演時の年齢は、役柄と同じ12歳くらいだったろう” ということぐらいしか分からない。監督インタビューでは、型通りユルームのことを褒めているが、その中で、「彼は原作を読んだが、あまり評価していなかった。中味については、その意味合いも含め、よく理解していて、それを演技にも反映させた」と言っている点は注目できる。あの強烈な原作を読み、理解し、それでも出演をOKしたとは、大した度胸だと思う。もちろん、温和な脚本も読んだ上で決めたのだとは思うが。


あらすじ

映画(1992年公開)は、“映画の中での現在”〔原作小説と同じ1980年〕で、モダン・バレエの振付家として活躍しているユルーム〔47歳〕が、TVのニュースで、1945年のアムステルダム解放を記念するお祝いの映像を見ていて、急に35年前の記憶が甦るところから始まる〔振り付け時の会話は英語だが、TVはオランダ語なので、アムステルダムにいるのだろう〕。その記憶は、TVを見る前と後での振り付けを変えてしない、女性の助手から、「ジェローム、前と違ってるわ」と指摘されてしまう〔ジェロームは、ユル-ムの英語式発音〕。「ああ、分かってる」。「元のスタイルに戻せないの?」。ユルームの部屋で、助手は、さらに、「あなたがはっきりしないと、ダンサーが困ってしまう。だって、ああしろ こうしろと、ちゃんと説明しないんですもの。ダンサーが可哀相だわ」と、指摘する。ユルームは、机の上に置いてあったサングラスを取り上げる。そして、その下に置いてあった訃報を見る。そこには、「WABE P. VISSER」という名前が書いてある〔これは、1944年にユルームを疎開させてくれた漁師の名前。ユルームにとっては、一時期 “父親代わり” だった人〕。ユルームは、自分を預かってくれた恩に報いるため、船で葬儀に向かう(1枚目の写真、サングラスは貴重な思い出の品)〔ラークスムは、アムステルダムの北北東約60キロにあるが、湖でつながっているので、船を使うのが最短コース〕。運ばれていく棺について教会の前まできたユルームは、昔の記憶が甦る。それは、日曜礼拝の途中で小用を足しに外に出て来た時の記憶だ。12歳のユルームが昔、自分がしたように、ミサを抜け出して扉から出てくる。その前には47歳のユルームが立っている。12歳のユルームは、「まだ、当時のこと覚えてる?」と訊く(2枚目の写真)。「ああ」。「おしっこしないと」。そして、10メートルほど離れた所に行く。「そんなとこで、するのか?」。「他にどこで? 昔、ここで したくせに」(3枚目の写真、矢印)。12歳のユルームは、すぐに戻ってくる。「待て」。「すぐ戻らないと」。「そうだったな…」。12歳のユルームは、教会の中に入って行く。「…だが、君に訊いてみたいことがあった」。この変わったイントロのあと、本編が始まる。
  
  
  

1944年、ナチスドイツの占領下のアムステルダム、ユルームは、疎開のため母に連れられて家を出る(1枚目の写真、矢印は自宅アパート)。原作の第1部1章によれば、母は市外に食糧調達中で、父が自転車で連れて行く。疎開の理由は、アムスルダムにおける食糧事情の悪さ、プラス、ユルームの弟の食べ物を確保するため。ユルームが起きた時間は朝の5時。なぜ、こんなに早く起こされたのか理由は分からない。ダム広場に着くと、そこには約束通りトラックが1台停まっていたが、こんなに早くから誰も来ないので、一番にトラックに乗る(2枚目の写真、矢印は、衣類の入った鞄)。母は、ユルームに配給カード〔配給物資を購入するための無記名の権利を認めるカード〕を、念のために渡す〔ユルームはこれから農家(実際に行ってみたら漁師だった)に行くので、実際には不要〕。母は、運転手と一緒にいる女性にお金を渡すと、すぐに帰ってしまう。女性は、ユルームに、首からかける名札を渡し、自分で名前を書くように言う。その頃から、他の子供たちも集まり始める(3枚目の写真)。ユルームの向かいに住むヤン〔映画では年上だが、原作では同年齢が、遅れてやってきて、トラックは出発する〔遅れてと言っても、出発は午前中〕。原作では、夜になるまでユルームは、延々と待たされる。
  
  
  

トラックは、原作によれば、アムステルダムから北のホールン(Hoorn)に向かい、そこから、さらに北にある 締め切り大堤防(Afsluitdijk)に向かう。大堤防は、1932年に完成した延長32キロ、幅90メートル、高さ7メートルの巨大構造物で、ザイデル海を締め切りオランダの西部と北部を結んでいる。1枚目の写真は、衛星写真。トラックはアムステルダムから北上し(左の矢印)、大堤防を渡り、右下にあるラークスム(●印)に向かう。途中で、ドイツ軍の検問所がある(2枚目の写真)(大堤防の手前)。映画では、ドイツ兵はトラックの後部の幌を開けて覗くだけ(原作では中に乗り込んで1人ずつチェックする)。トラックはすぐに走り出すが、乗っていた子供の1人が我慢できずにおしっこを漏らし、恥ずかしく泣き出す(3枚目の写真、矢印はユルーム、その左がヤン)。隣に座っていたヤンは、「お前、しょんべん漏らしたのか? あっち行けよ、むかつくな。何て名だ?」と訊き、「ヘルティ」と返事をもらうと、「覚えとけ。これからお前の名は、ばっちいヘルティだ」と言い、それを聞いた子たちが笑う(原作にはない)。真夜中になり、トラックは「日曜学校」と書かれた小さな建物の前で停まる。全員がそこでトラックを下りる(4枚目の写真、矢印はユルーム)。原作では、ここで引率の女性が、「ここの人たちはフリジア語を話します。最初のうちはチンプンカンプンでしょう。私でも半分しか分かりません。でも、あなたたちは、1ヶ月もすれば流暢に話せるようになるでしょう」と注意する。以前紹介した、『Hemel op Aarde(地上の天国/バートとモニク)』で、オランダ公開時に字幕をつけたと書いてあったが、それは、フリジア語だったからであろうか? 映画では、ユルームは引き取られた家で普通に会話している。
  
  
  
  

日曜学校に入った子供たちは、村のお偉方に出迎えられ、暖かい飲物を渡される。原作の第1部2章では、お偉方の出迎えの言葉はない。ミルクの後にサンドイッチが出される。女の子の一人が、髪にシラミがいると分かり、髪の毛を短く切られる(原作では、トラックの中に坊主頭の少年が1人いる(シラミがいたため))。教壇に立った地元の女性が、「みなさん、あなたたちは、これから、新しい家庭に行きます」と話しかける(1枚目の写真、矢印はユルーム)。そして、順番に名前を呼ばれ、迎えに来た家族が引き取っていく。ヤンと一緒に座ったユルームは、女性の声を真似てふざけていたが、ヤンが連れて行かれ、1人だけ教室に残されると不安になる(2枚目の写真)。1人だけ残っていた男性が教壇で相談中の3人に歩み寄ると、「手違いか?」と訊く。そして、「まあ、仕方ないな。女の子を希望したんだが」と言い、ユルームの前に行き(3枚目の写真)、「おいで」と呼びかける。男性とユルームは、荷馬車で家に向かう(原作では、ユルームは家族とは関係ない男と一緒に自転車で引き取り先に向かう)。
  
  
  

男(一家の主人)は、ユルームを連れて家の中の入って行くと、妻に、「手違いがあって、残っていた子はユルームだった」と紹介する(原作では、夫は漁に出て不在なので、妻しかいない)。「いいわ。面倒見ましょ」。そして、ユルームに、「いい名前ね」と話しかける(1枚目の写真、矢印は主人が置いた鞄)。妻は、鞄の紐を外すと、中の衣類を見て、「きれいな服ね」と感心するが、普段着にはできない。そこで、降りて来た長男のヘンクに、「この子、ユルームよ」と紹介し、「お前の服を貸しておやり」と言う。ユルームは、革靴をはいているので、木靴に代える必要がある(原作によれば、ぬかるみが多いため、木靴でないと歩けない)。妻は、「長旅だったから、お腹空いたでしょ?」と親切に訊くが、ユルームは、そもそも、初めましても、よろしくお願いしますも、何も言わない。この申し出にも、「要らない」と答えただけ。夫は、「だが、ボーレも要らんのか?」と訊く。「ボーレ?」。妻:「薄切りのパンよ」。そこにいた3人の子どもは笑うが、ユルームは不機嫌なままポケットを探り、「失くしちゃった」と、怒ったように言う(2枚目の写真)。「何を失くした?」。「配給カード」。ここでは、そんなもの必要ないので、女の子が、「母ちゃん、それって何?」と尋ねる。次のシーンは、一家の夕食。フリジア語を話す人たちはカトリック教徒〔アムステルダムから来たユルームはプロテスタント〕なので、食前に敬虔な祈りを捧げる。ユルームは疲れて寝ている〔目の前には、食糧難のアムステルダムでは垂涎の大きなチーズもある〕
  
  
  

その夜、ヘンクの箱ベッド〔箱状の部屋にセミダブルベッドだけが入っている〕に一緒に寝たユルームは、オネショをする。真っ先に気付いたのはヘンクで、ユルームはパジャマ姿のまま海辺に逃げて行く。そこに、主人がやってきて、木靴を脱ぐと、黙って一緒に座り、「あっちがアムステルダムだ」と教え、肩に、着替えを載せると、「井戸は家の横にある」と教え(1枚目の写真、矢印は着替え、ユルームが見ている斜め左はアムステルダムの方向、右端には木靴)、立ち去る。原作の第1部4章でも、同じようにオネショをする。箱ベッドで一緒に寝ているのは、ユルームと同い年のマインツ。彼は気付かない。朝になって、発見した女性から、夜尿症かと咎められ、オネショしたのは5歳の時以来と弁解する。この家の主人は、映画と違い影が薄く、何もしてくれない。映画では、女性の代わりに、ヘンクが、屋外トイレの順番待ちの際、「お前、アムステルダムでも、いつも、ベッドで小便してたのか?」と訊く(2枚目の写真、矢印が屋外トイレ)。その後、ヘンクと一緒にボートに乗ったユルームは、最初は上手に漕いでいたが、ヘンクが立ってボートを揺らすと、ぶっ倒れて笑われる(3枚目の写真)。無愛想で冴えないユルームには、ちょうどいい薬だ。ボートのシーンは原作にも似たような部分がある。ただ、ユルームは、心の底ではアムステルダムに帰りたくて仕方ないのだが、こんなに非礼な子供ではない。
  
  
  

ユルームは、カトリックの日曜礼拝に家族と同伴させられた後、家に戻ると、何かの入った洗面の上に顔を伏せさせられ、上から布を被せられ、「息を深く吸って。肺まで届くように」と言われる。これが何のためなのか、原作にはないので、想像できない。長女は、「体にいいのよ」と言って体をさするが、ユルームは、布を投げ捨てると、ドアを叩き付けるように部屋から飛び出て行く。父親は、敬虔なカトリックらしく、聖書を読みきかせている。すると、ドアが再びパッと開き、ユルームが、「僕、家に帰る」と強い調子で言う(1枚目の写真)。「ボートで行くがいい。ヘンクが助けてくれる」。真面目な顔で言った父親の言葉に、母親も子供達も笑う。ユルームは怒って出て行く。何度も書くが、原作では、心の底で思っていても、こんな失礼なことを面と向かって言うようなことはしない。純粋な好意から長期にわたってタダで生活させてもらっているのに、感謝の気持ちのかけらもない少年という性格設定は、見ていていい気がしない。ユルームが、納屋でふて寝をしていると、下で、父子が雌牛のお産を手伝っている(2・3枚目の写真、矢印は赤ちゃん牛の脚)。父親は、「ユルーム、降りて来い。手助けが要る」と、先ほどの暴言を全く気にかけずに、優しく声をかける。ユルームは、物珍しさもあって 下に降りていく。父親は、ユルームに、産まれた子牛を藁できれいにさせる。これだと、この一家は農家になってしまう。だから、このようなシーンは原作にはない。
  
  
  

日曜学校では、神父が、「ヨナタンは、王命に逆らってダビデを助けた。その後どうなった?」と、アムステルダムから来た3人の知識を試そうとして質問する〔ヨナタンはイスラエルの初代国王サウルの子。この時、ダビデは羊飼いの子。王子サウルとダビデとは友情で結ばれていたので、サウルは父の命令に逆らった〕。ヤン、ユルーム、女の子ハーディの3人は、何も答えられない(1枚目の写真)。神父は、「アムステルダムでは、別の聖書を読んでるのかな」と言い、生徒たちから笑い声が起きる。原作の第1部5章では、十二使徒の名前を訊かれたユルームは、ヨセフ、ダビデ、モーゼ、パウロと間違った2人を入れると2人しか答えられない。映画が、わざわざヨナタンとダビデに変えたのは、恐らく、ヨナタンが戦死した後、ダビデが言ったとされる言葉、「私の兄弟ヨナタンよ。あなたは私を大いに喜ばせ、あなたの私への愛は、女の愛にもまさって、素晴らしかった」という、ホモセクシャルな愛が映画の主題にぴったりと合っていると考えたからであろう〔しかも、この時、ヨナタンは青年、ダビデは少年で、映画のウォルトとユルームと同じ〕。次に、家に戻ったユルームが、子牛を可愛がって喜ぶ姿が映される(2枚目の写真)。そこに、ヤンが姿を見せる(原作では、ヤンは、1キロほど離れたスカール(Skarl)という小さな村の農家に引き取られている)。そして、「お前の配給カード、見つけたぞ。どうせ、使えないがな」と言って渡すが、これに対しては、それを見ていたユルームの養い親が不審の目でヤンを見る〔ヤンは、自分がたっぷり食べようとカードを盗んだが、役に立たないと分かって返した〕。2人だけになると、ヤンは、「お前の養い親は、ここら辺で一番の鰻取りの名人だそうだ」と言った後で、望郷の思いを口にし、「ナチス野郎なんか全員絞首刑にしちまうといい」と言う(3枚目の写真)。ユルームは、養い親が、「ドイツ人を憎むんじゃない。憎しみは罪だ」と言っていた、とヤンに反論する。原作では、ユルームとヤンは海の近くでしか会わない。
  
  
  

その後に入るのが、入浴シーン。裸になって待っている “妹” の前で、ユルームは、先にたらいに入れられて、ごしごし擦られている(1枚目の写真)。ユルームが終わると、今度は、同じ湯に “妹” のエイリが入る(2枚目の写真、矢印は エイリ)。同じ湯に、いったい何人が入るんだろうと思ってしまう。そして、こんな入浴は、週に一度だろうか? 衛生的とは思えない環境だ。次のシーンで、ユルームはアムステルダムの両親に手紙を書いている。「ママとパパへ。僕は元気だよ。食べ物はいっぱいあるけど、寂しいよ」と書くと、窓辺に来て思い出に浸る(3枚目の写真)。原作の第1部6章に書かれている手紙の内容。長くなるが紹介しよう。「ママとパパへ。フリースラントから愛を込めて。僕たち無事着いたよ。楽しい旅だった。僕は元気だよ。僕の家族には7人の子供がいるんだ。5人は家にいる。一番上の姉さんは、この辺の農家で働いてる。そっちに住んでるけど、時々やってくる。素敵な人だよ。小さな男の子もいたそうなんだけど、妹がポリオにかかった時、よその家に預けたら、そっちの家がその子をすごく気に入っちゃって、返してくれないんだって。変な話だよね? 僕は、いろんなものをいっぱい食べてる。この家の人は、僕に背が高くなり、痩せっぽちでなくなって欲しがってる。今夜は、こっちの父さんの網にかかったアヒルを食べたよ。そうそう、父さんは漁師なんだ。だから、毎日海に出て行く。こっちの父さんと母さんのことを、僕は、ハイトとメムって呼んでる。フリジア語なんだ。図書館から本を借り出して勉強してるけど、フリジア人同士が話してると、さっぱり分からない。ヤンは近くに住んでる。大きな農場で、そこで働いてる。僕たち仲良しだから、すぐ近くになれてすごく嬉しいよ。何度でも、訪ねていけるから。僕たち、アムステルダムのこと、よく話すんだ。ヤンは、すごく遠いって言ってるけど、間違ってる。だって、学校で地図を見たら、ラークスムからなら泳いで行けるもん。もし、戦争が長引くようなら、ここを逃げ出そうと思ってる。ヤンは、詳しい計画も立ててる。びっくりした? ヤンは、こっちの兄弟のマインツと同じくらい、いい奴なんだ。ヤンは、ほとんど学校に行かない。僕もだよ。歩いて30分もかかる別の村にあるんだ。午後も学校に行くと、1日に2時間も歩かないといけない。学校は難しくない。簡単についていけるし、宿題も出ない。先生はいい人で、僕に満足してるみたい。ここでは、電気じゃなくてランプを使ってる。水道じゃなくて井戸だ。それに、いっぱい羊を飼ってるから、朝、学校に行く前に糞を桶に集めて地面をきれいにするんだ。瓶でバターを作るんだよ。牛乳を瓶に入れて長いこと振ってると濃くなるんだ。天気がいいから、僕たち外で遊ぶ。港でもね。網の繕いを手伝ったりもする。魚臭いけど。幸い、魚はあまり食べなくて済む。そっちはどう? ママは、たくさん食料もらえてる? そうだといいね。戦争が早く終わったら、また会えるね。すごく寂しいよ。返事、すぐくれる? じゃあね。これで終わるよ。ユルーム」。
  
  
  

「1945年」と表示される。ユルームが、姉、兄、妹の3人と一緒に海岸に沿って生えているヨシの脇を歩いている。すると、ユルームは、沖合に、小型飛行機が上下逆さまになって浮いているのを見つける。興味を持ったユルームは、最後尾を歩いていたので、そのまま誰にも告げずに海辺まで出る。そして、木靴と靴下を脱ぐと、そのまま海に入って行く(1枚目の写真)。ユルームの姿が消えたことに気付いた3人は、他に行く場所はないので、海辺に捜しにきて、沖に向かって歩いて行くユルームを見つける。ヘンクは、「ユルーム、戻れ!」と叫ぶ(2枚目の写真、矢印は墜落した小型機)。「そこは、流砂があるから危険だぞ!」。しかし、ユルームは、お構いなしに進んでいく。見かねたヘンクは、木靴だけ脱ぐと、そのまま海に入って行き、無謀な試みを止める。「このバカ、ケガでもしたらどうする!」。姉は、「ここには、二度と来ちゃダメよ」と叱る。ユルームは、“どうしても行きたい” という顔で、飛行機の方を見る(3枚目の写真)。映画では、何度も登場するこの飛行機だが、原作(第1部8章)では一度だけ、マインツが、「誰が、あんなとこまで泳いでく?」と言うだけで、終わってしまう
  
  
  

この先は、映画だけのシーン。ヤンとユルームは、アシの中に係留してあるボートを漕ぎ出し(1枚目の写真)、小型機に向かう(2枚目の写真、矢印)。ヤンは、パンツ1枚になると、万が一のためのロープをユルームに放って寄こし(3枚目の写真)、そのまま海に飛び込む。操縦士がどうなっているか調べるためだが、ユルームが48まで数えた時、急にロープが引かれたので、ヤンを引き上げる。ヤンは、右腿に大きな傷を負い、逃げるように機体の上に這い上がる。海の中はウナギだらけだった〔野生のオオウナギに噛まれるとケガをする〕。2人は大急ぎで退散する。
  
  
  

次の場面、海に潜ったヤンが全裸になって着ていたものを干している。それはまだ理解できるが、ボートに乗ったままだったユルームまで、なぜパンツ1枚で着衣を乾かしているのだろう? そもそも、これは、1945年の出来事で、オランダの解放は5月5日なので、このシーンは遅くとも4月下旬となる。フリースラント〔北緯53度/稚内で北緯45度〕は、4月の末でも最高気温は13度。とても、裸でいられるような “陽気” ではない。ユルームは、ずっとヤンの裸を見ている(1枚目の写真)。ヤンは、うつぶせになったまま寝ている。水鳥の音で目を覚ましたヤンは、「俺は、いちんちじゅう、クソの始末だ。羊のクソ、山羊のクソ、牛のクソ…」(2枚目の写真)「何でもありだ。俺が始末する傍らから、汚していきやがる」と文句をならべる。ヤンは、ユルームが自由にさせてもらっているのに対し、農場でこき使われている。そして、うっぷんを晴らすようにユルームの上に馬乗りになると、マスタベーションをするように体を揺する(3枚目の写真)。ユルームは、体の上に乗ったヤンを押しのける。ヤンは、「お前、時々硬くなるのか?」と訊く。意味が飲み込めないユルームは、「いつもさ」と答え、ヤンに「嘘付き」とバカにされる。そこに、ヘンクが現われ、裸になっているので、「頭がおかしくなったか?」と叱られ、すぐに服を着させられる。映画では、この場面を設定するために、わざわざ飛行機に行かせたのであろう。しかし、その割には、原作の重要なポイントを描ききれていない。この場面は、原作では、ユルームが自分の体の異変に気付く、前段階として重要な場面だ。そして、映画では削除されているが、異変は、ヤンとの絡みで起きる。それは、後半のカナダ兵との関係を予告するものでもある。原作の第1部8章では、飛行機とは関係なく、丘の上でヤンがユルームにふざけ始める。彼は、ユルームに体を絡めてくる。ユルームは完全に突き放す。すると、ヤンは、ユルームの見ている前で、パンツを下げ、自慰を始める。ユルームは、唖然として見ている。ところが、それからしばらくして、ユルームがヤンの農場にある、ヤン専用の小さな部屋に初めて入った時、秘密の場所に連れて来られたという興奮から、勃起してしまう。原作の第1部11章よれば、「僕は、取り乱した感情が沸き起こるのを感じた。抑えたりすることなどできず、炎のように体中を駆け巡った。僕は、ヤンの2本の足の間に顔を押し付け、彼の体を感じるために両手を下着の中に押し入れ、彼と一体化し、キスし、愛したくなった」〔実行はしない〕と書かれている。これにより、ユルームにはホモセクシャルな性向のあることが分かる。こうした過程は、映画では描ききれていない。
  
  
  

1945年5月5日。後になって解放記念日と呼ばれる日。村でもカナダ兵の凱旋パレードが行われる。小さな村なので車は3両しかない(1枚目の写真)(原作では第2部5章)。そして、その先頭車両の助手席に立っているのが、ウォルトだ(2枚目の写真、矢印)。ウォルトは、この時、先導するトラックの荷台の上で さかんに手を振っているユルームに目が釘付けになる(3枚目の写真)。村の芝生の空き地には軍のテントが張られ、その周りに、多くの子供たちや、兵士に気のある若い女性が数人集まっている。ウォルトは、その中にユルームがいるのに気付くと、「ハロー」と声をかけて近づいて行き、「ほら、取れよ」と言いながらチューインガムを渡す〔ユルームに英語は分からない〕。ここでもユルームは無愛想で、オランダ語で「ありがとう」とも言わない。
  
  
  

その夜、カナダ兵が舞台に立って歌って踊る “歓迎に対するお返し” のショーがあり、ユルームも嬉しそうに見ている(1枚目の写真)。ショーが終わると、ダンスパーティに変わり、男女で楽しく踊る。ネクタイをはめたユルームは見ているだけで、地元の女の子と踊るようなことはしない。その次に、誰もいなくなった会場で、ウォルトとユルームが踊る有名なシーンがある(2・3枚目の写真)。このシーンには、一種の美しさはあるが、如何にも不自然であることは否めない。チューインガムをもらった時はあんなに愛想が悪かったユルームが、なぜ、パーティが終わった後に、ウォルトと踊っているのか、どう考えても説明がつかないからだ。ただ、この2人が踊るということは、それまでは男と女が踊っていたので、2人のホモセクシャルな関係を象徴させる意味合いはある。これを、2人の「第1回目の接触」とカウントしよう。
  
  
  

「第2回目の接触」は、恐らく翌日、ウォルトが1人でジープを運転していると起きる。前方をユルームが歩いていることに気付いたウォルトは(1枚目の写真)、ユルームの真横で車を停め、チョコレートを放って寄こす。そして、「乗れよ」と言うが、ユルームは木靴をカタカタいわせて走って逃げる。それが本気でないことは、ウォルトが追い越すと、今度は、逆向きに歩き始めることで分かる。ウォルトはジープをバックさせる。ユルームは、道路の真ん中をジープの邪魔をするように歩く。ウォルトは、ヘッドライトを点けて警告する(2枚目の写真)。いずれも、ただの “お遊び” だ。結局、ユルームは助手席に嬉しそうに乗る(3枚目の写真)。
  
  
  

ジープに乗ったユルームに、ウォルトは、「君は、俺をからかったのか?」と尋ねるが、意味の分からないユルームは笑っているだけ。そこで、ウォルトは、「俺はウォルトだ。ウォルト」と指で自分を指して言う。「君の名前は?」。「ユルーム」。「そうか、よろしくなジェローム〔ユルームと聞いただけで、それがジェロームのオランダ発音だと気付くハズはない!〕名前を言い合うシーンは原作の第2部3章にある。そこでは、ジェロームと言い間違えることはない。「ユルームだよ」。「ユルームだな、イエス・サー」。ユルームが、もらったチョコレートを食べようとすると、1かけら折ったウォルトが、それをユルームの口に入れる(1枚目の写真)。チョコレートの場面だけを探すなら、原作の第2部7章に、チョコレートを1かけ入れて、「ほら、食べて」と言う場面はあるが、ジープの中ではない。小さかったな。ちっちゃな足みたいだ。『ガリバー旅行記』は知ってるか? 巨人が住んでたとこはどこだったっけ? ブランディンゴだったかな?」。こんな難しい内容を、なぜユルームが理解できたのかは分からないが、彼は、「ブロブディンナグだよ」と正しく訂正する。2人は仲良く口笛を吹きながら、カナダ小隊の本部になっている村の小さなホテルに乗りつける。ウォルトは、トラックが修理されているのを見ると、「このバカ、待てなかったのか? それじゃ、直るもんも壊しちまうぞ」と言ってトラックの下に潜る。ユルームは、長いこと待たされるのかと心配そうだ(2枚目の写真)。この時期のフリースラントは、天候が不順なようで、晴れていた空に雷鳴が響き渡ると、どしゃ降りになる。ユルームは、納屋に避難する。修理が終わり、ユルームの姿が消えたので、心配してウォルトが探しにくる。そして、納屋にいるのを見つけると、親しげに肩に手をやる(3枚目の写真)。雨がやまないので、ユルームはずぶ濡れになって帰宅する。
  
  
  

「第3回目の接触」は、3日目? ユルームとウォルトが海辺の近くの野原をふざけながら歩いていると、そこにジープに乗った3人の兵士が、村の若い女性2人を乗せてやってくる。何れも、“恋人同伴” という点では同じだ。他の兵士がそれを認識していたかどうかは分からない。ユルームも一緒に座る(1枚目の写真)。そのあとすぐ2人は連中と別れて散策する。その時、ウォルトは、「知ってるか? 俺は軍隊が嫌いなんだ。だから、仕方なくやってる。母は誇りに思ってる。泣いたけどな。父は俺をバカ呼ばわりした。泣いたのは同じだけど。戦争は、俺を男にした。ちっとも嬉しくなかった。今までは。だが、君を見た時、君は違ってるとすぐに分かった。君は、俺と同じだ。どういうことか分かるか? 君は特別なんだ、ユルーム。とっても特別な存在なんだ」と本心を打ち明けるが(2枚目の写真)、意味の分からないユルームにとっては、これまで挑戦して失敗した “小型機の残骸” を見せる機会になった。その後、ユルームは、「あなた、僕… 日曜… 教会の後… 飛行機を見に行こうよ」とオランダ語でゆっくり言う。「何て言った、相棒?〔意思の疎通はゼロ〕。2人は、そのまま歩いてホテルに向かう(3枚目の写真)。
  
  
  

ウォルトは、ユルームをジープに乗せ、「部屋で取ってくるものがあるから、ここで待っててくれ」と言って、ホテルに入って行く。ウォルトはジープのキーを取りに行っただけなのだが、気分を変えてシャワーを浴びることにする。一方、何を言われたのか分からないユルームは、ウォルトがなかなか降りてこないので、ホテルの中に様子を見に行く。2階のある部屋では、2人の兵士が2人の女性と仲良くしていた。一番奥の部屋は広くて、ベッドが1つしか置いてない〔ウォルトが、小隊長ということになる〕。隣の部屋から音がするので、ユルームは、「ウォルト?」と呼んでみる。シャワー室のドアが開き、中ではウォルトがシャワーを浴びている。そして、ユルームが近づくと、つかまえて、一緒にシャワーを浴びさせる(2枚目の写真)。ユルームは、服を着たままだったので、部屋の中に紐を張って服を乾かすことになる。その間、ユルームは、ウォルトの裸の胸に頭を乗せて一緒にベッドに横になる〔普通の子が、そんなことをする?〕。少し時間が経つと、ウォルトは眠ってしまい、ユルームは起き出して鏡の前で髪をいつものようにせず、オールバックに整えて、悦に入る(4枚目の写真)。この辺りで、原作との違いパート・ワンを始めよう⇒セクシャルな記述が含まれるので、その種のものが嫌いな人は、以下は飛ばして次の節に⇒ウォルトに関する場面は、基本的に、原作と映画で一致点は全くない。映画では、5月5日のパレードで会うことになっているが、原作では、その数日前、ドイツ兵が橋を爆破して逃げ出し、村では、連合国軍が来るという噂が飛び交っている(第2部1章)。学校も臨時休校になる。村の子供たちは、緑のトラック数台が爆破された橋のある運河沿いに停まっているのに気付き近寄っていく。その中に、ユルームもいた。1台のトラックから、2人が出てきて、運河で泳ぎ始める。女の子が、「1人は、何も着てないわ」と言い出す。ユルームは、確認できなかったが、2人は、お互いに水に沈めっこしたり、抱き合ったり、蹴りあったりして遊んでいて、「僕だったら、あんなこと恥ずかしくてできない」と思わせる。さらに、「2人は18か19のように見える。あんなに若いのに、銃を持って戦争に行くなんて」とも。トラックの周りには、いつの間にか子供たちの “輪” ができていた。その輪の中にいたユルームに、誰かが胸に腕を回して引っ張り込もうとする。ユルームは、恐怖で縮こまる。「何が起きた? 誰が引っ張ってる?」と震える。他の子供たちは見ているだけ。肩をつかまれ、逆向きにされると、そこにいたのが灰色の詮索好きな目をした1人の兵士。ユルームが、「放してよ」と嫌がり、「恐怖で凍りつき、叫んだり、蹴ったりしなくちゃ」と思い始めた頃、その兵士は、頭をポンと叩いて、細長いもの(チューインガム?)を渡してくれた。ここからが、「1回目の接触」(第2部2章)。「兵士の声は親切そうだったけど、僕はまだ怖かった。僕の手はまだつかまれたままだ。何もできない。こんなの何かの間違いだ」。兵士は、「車を見せてやるから、来いよ」と言い、無理矢理車に引っ張り上げる。それでも、ユルームは隙を見て逃げ出した。「2回目の接触」(第2部3章)は、翌日、交差点で車に乗った兵士に呼び止められる。兵士はチューインガムを差し出し、ユルームがもらおうかどうしようか迷っているうちにドアが開き、「乗れ」と声がかかる。「乗るベきか、断るべきか?」。兵士は、ユルームの意志は無視し、前に屈むとコートをつかみ、ユルームを車に乗せる。そして、腕を肩にまわす。ここで、お互いに名前を言い合う。その後が、どんどんひどくなる。ウォルトは、ユルームが “自分の物” になったかのように、平気でユルームの体に触ったり、急カーブでユルーム体がウォルトにぶつかった時には抱きついたり、運転しながら、シャツの裾から手を入れて首を揉んだりする。最悪なのは、一軒の家の裏手にある茂みに連れて行かれた時、ウォルトが急に凶暴になったこと。体を何度も柵に叩きつけられ、両肘と肩にケガをさせられた挙句、雨でどろどろになった地面に投げ出されて泥まみれになる。しかも、ウォルトはユルームの唇を無理矢理こじ開け、そこに舌を突っ込み、唾液を絡み合わせる。この二重の意味での暴行に、当然、ユルームは泣き始める。「僕の口の中に残った彼の味に、早く消えて欲しかった」。ケガとショックで寝込んだユルームは、2日後に、海岸で休んでいた時、ウォルトとかち合う。「3回目の接触」だ(第2部4章)。逃げられない。その時、ウォルトにさせられたことを、「僕は、好きなことをさせられる おもちゃの人形」と形容している。「なぜ、こんなことが起きたのか? なぜ、突然、人生が変わってしまったのか?」とも。ウォルトは、ユルームに “手コキ” をさせようとするが、ユルームが嫌がって腕を抜いたため、代わりにユルームの耳を舐めながら自慰を始め、それを強制的にユルームに見させる。その後、ウォルトはユルームを襲おうとするが、仲間の兵士の声がしたので海に飛び込み、ユルームは救われる。映画で、いわば冒頭にあったと言える5月5日のパレード(第2部5章)は、何と、この3つの「接触」の後にある。こうして見てくると、映画では、ウォルトは親切な楽しい青年で、シチュエーションも様々だが、原作では、冷酷で卑劣。考えていることは、ユルームを如何に自家薬籠中の物にするかだけ。これでは、はっきりいって映画にはならない。だから、この映画の脚本は、かなり優れものだ。
  
  
  
  

ユルームが、次に会おうと言っていた日曜礼拝。最初は教会の堂内の全景が映る(1枚目の写真)。解放軍はお客様なので、最前列に座っている。その間も、ウォルトは、時々後ろを振り向いてはユルームを見ているし(2枚目の写真)、ユルームもそれを見て満足気だ(3枚目の写真)。この2人の間には、原作と違い隷属関係はない。
  
  
  

礼拝の途中で、ユルームが養い親ハイトに小用に行きたいとこっそり頼み(1枚目の写真)、扉を開けて外に出て行く。外に出ると、当然 誰もいない(2枚目の写真)。映画の冒頭で、47歳のユルームが追憶の中で語りかけた箇所だ。ユルームは、一番近くの木のところに行って用を足す(3枚目の写真)。冒頭のシーンのユルームの視点からの撮影だ。ユルームが戻ってきた時には、全員が立ち上がり、賛美歌を歌っていた。
  
  
  

ここから、「第4回目の接触」が始まる。最初は、ユルームが希望していたように、飛行機で。教会を出たところで、ウォルトが、「昨日、俺に言ったこと覚えてるか? 浜辺だ」と訊く。「イエス」。「まだ、見に行きたいか?」。「イエス」。「後で、浜辺で会おう〔ウォルトは、昨日、ユルームがオランダ語で話したことが分からない様子だったのに… それに、ユルームはいつから英語が分かるようになったのだろう…?〕。そして、場面はいきなり、ひっくり返った小型機の上に移る。海に潜って調べてきたウォルトは、機体に這い上がると、待っていたユルームに、「中には入れなかった。泥でいっぱいだ。死体が残ってたのは知ってたか? 2人だ。ベルトを締めたままだ。背中にパラシュートもつけてた。俺の言ったこと、分かったか?」と話す(1枚目の写真)〔ウォルトは、なぜウナギに襲われなかったのだろう?〕。恐らく、何一つ理解できなかったユルームは、そのまま黙ってボートに乗り移る。ウォルトは、「飛行機は今浮かんでいるが、潮流で押し流されると、そのうち潜水艦のように沈む」と説明し、ユルームの肩に手を置くと、「怖がるな。守ってやる」と言い、抱き寄せる(2枚目の写真)。ユルームは、ホテルまでジープを運転させてもらう(3枚目の写真)。これからウォルトがしようと企んでいることに対する、“餌” であり、“お駄賃” だ。
  
  
  

ウォルトの部屋に連れ込まれたユルーム。ウォルトの上着を体の前にぶら下げ、木靴でドタドタ歩いて見せる。「俺をからかうのか?」。ユルームは、上着をウォルトに放り投げると、今度は踊ってみせる。「♪リンゴが摘むほど熟したら、女の子もファックするほど熟してる」。今のユルームの立場に即した歌だ。歌の内容は分からないものの、腰の振り方に我慢できなくなったウォルトは、ユルームをつかむとベッドの上に押し倒す。そして、シャツのボタンを引きちぎる。ユルームは、ボタンを心配する。ウォルトは、こんなことで水を差されたくないので、「心配するな、後で縫い付けてやる。約束だ」と言う。その後、場面は急に飛躍する。ベッドの上に全裸でうつ伏せに寝たユルームは、心配そうにユルームの顔を見上げる(1枚目の写真)。その後、ウォルトは、「愛してる。俺の王子様。君は、俺のものだ」と言い、手で頬を撫でた後、痛さでユルームが叫ばないよう、口を押さえる。そして、アナル挿入。ユルームはあまりの痛さに歯をくいしばる(2枚目の写真)。事が済んだ後、ユルームはベッドから立ち上がると、鏡の前に行き、置いてあったサングラスをはめる。そして、小机の上に置いてあった写真の中からウォルトの写真を抜き取ると、それを自分のシャツの胸ポケットに入れる(3枚目の写真)。
  
  
  

ユルームは、横になって寝ているウォルトの背中を指先で撫でる。ウォルトはチョコレートを折ると、それをユルームに渡し、ユルームはすぐ口に入れる。ウォルトも1カケ口に入れる。そして、チョコレートを食べながら、熱いキスを交わす(1枚目の写真)。キスが終わった後の2人の顔には、口のまわりにチョコレートがついている。その状態で、2人は、向き合うと、ウォルトが、どんなアイスクリームが好きか、1から4までカウントしてユルームに言わせる(2枚目の写真)。ユルームはチョコレートと答える。そして再びキス(3枚目の写真)。この「4回目の接触」の最後のシーンは、子供の遊びのようなものでキスさえなければ微笑ましい。映画では、ここで2人の接触は終わる。だから、原作との違いパート・ツーに入ろう⇒セクシャルな記述が含まれるので、その種のものが嫌いな人は、以下は飛ばして次の節に⇒原作では、2人の接触は計7回もある。「4回目の接触」(第2部5章)は5月5日。軍隊車両のパレードの後、ウォルトは橋の上でユルームが来るのを待っている。そして、兵士たちが食事をしている大きなテントに連れて行く。ユルームは、さっそく食べ始める。食事が済むと、ユルームはウォルトの専用テントに連れて行かれる。裸になったウォルトはユルームのシャツの中に手を入れ、パンツの中にも入れようとするが、ユルームがパニックを起こしたため引っ込める。その後、ウォルトがユルームの顔に覆いかぶさると、ユルームは服従したように口を大きく開け(「2回目」の時は嫌がったのに)、ウォルトは舌で舐め回す。その後、ユルームはシャツを引き剥がされる。ウォルトは、ユルームの上に屈みこんで動けなくすると、パンツを脱がせ、ペニスを股に挟ませて自慰行為をし(「僕の心は、はじけ散る寸前のきつく巻かれたバネだった」)、ユルームの下肢から肋骨にかけて射精する。おぞましい行為だ。別れる前、ウォルトは、「明日、泳ぐ」と言って、再会を約束させる。「5回目の接触」(第2部6章)。奴隷化したユルームは、もう自分をコントロールできない。行きたくないのに海に行く。ユルームは乱暴にアシの中に転がされる。キスさせられた後、手を裸の腰に触らせられる。ウォルトはユルームのパンツの上からキスし、ユルームは自発的に腕をウォルトのパンツの上に置いたり、シャツの中に入れたりして相手を驚かせる。「6回目の接触」(第2部7章)。ユルームは、もうウォルトの言うがまま。前に、ケガをさせられた小屋まで一緒に行く。詳しい記述は敢えて避けるが、そこで行われた行為は、映画とは似て非なるもの。小屋に入り、すぐに服を脱がされたユルームは、様々な屈辱的な行為をさせられる。①仰向けにさせられ全身を触られる。②ウォルトのペニスを口に押し付けられる。③マットレスに寝かせられ、全身を舐められし、ペニスを愛撫される。④口を開けさせられ、舌で舐め、唾液を飲み込ませられる。⑤アナルに挿入される。「燃えるような痛みが全身を貫き、体は痙攣し、麻痺した」。⑥股の間にウォルトが頭を入れ、勃起してしまったペニスを吸われる。⑦逆に、勃起したウォルトのペニスが初めて口の中に押し込まれ、そのまま乱暴に体を動かされたので、窒息しそうになる。書くのも恥ずかしいような内容だが、これは実際に作者に起こったこと。映画は、⑤の部分だけを、間接的に描いているが、実際は、児童への激しい性的暴行以外の何物でもない。「7回目の接触」(第2部7章の最後)はテントの中。ユルームに “手コキ” させるだけで終わる。
  
  
  

学校が終ると、ウォルトが待っていて、ユルームと その家族全員、それにヤンを入れた記念写真を撮ってくれる。その時、サングラスが邪魔になったので、横にあった鉄条網に引っ掛ける(1枚目の写真、矢印)。「笑って、ユルーム」。「こっちに来ないの?」(2枚目の写真)。「そこに俺がいる」。ウォルトが指したのは、背後にあったカカシ。ヤンはカカシをつかむと、ユルームのすぐ後ろに立て直す。ウォルトは、自分の認識票を首から外し、ヤンに投げる。ヤンはそれをカカシの首にかける。これで、カカシはウォルトの代役になった。そして、カカシを入れた状態で記念写真をパチリ(3枚目の写真、矢印はカカシ)。そこに、軍のジープが来たので、ウォルト、もう1人の兵士、一緒にいた2人の女性も入れた写真も撮る。原作には、撮影シーンは一切ない。ついでに言えば、ユルームはウォルトの写真も手に入れてない。
  
  
  

その撮影シーンで、右端でユルームの肩を抱いたウォルトとのツー・ショット部分がクローズアップされる(1枚目の写真)。その後、ウォルトが、ユルームに銃を触らせるシーンがある(2枚目の写真)。その時、ウォルトはカメラの裏蓋を開けてフィルムを取り出そうとしている(矢印はカメラ)。ユルームが勝手に撃鉄を起こしたので、ウォルトは急いで手を伸ばすが、その時、取り出したばかりのフィルムを落としてしまう。当時の写真用フィルムはマガジンに入っておらず、ただ、スプールに巻いてあるだけなので、落せば緩み、中に光が入ってしまう。ユルームは、大事なものが写っているので、急いでスプールに巻き戻す(3枚目の写真、矢印)。「捨てろ」。「いいから。君と僕、いつも一緒。イエス?」。「そうだな。撮り直そう。そのうち」。ユルームを家まで送っていったウォルトは、ハイトに、「ユルームに言って… 明日…」と話しかける。ハイトも、片言の英語で、「あなた… 兵士… カナダ… 友達…」と言う。これでは、何を言っても通じないと悟ったウォルトは、「ありがとう」とだけ言って別れる〔本当は、明日、いなくなると、言っておきたかった〕このすべてのシーンも原作にはない。
  
  
  

翌日、他の兵士と付き合っていた女性が、プレゼントにもらったネックレスを、“姉” に見せている。「きれいね」。「彼、何って言ったか知ってる。アイ・ラヴ・ユーよ。だけど、ダメって言ってやったの」。それを見たユルームは、「それ何?」と訊く(1枚目の写真)。それが、“さよならプレゼント” だと知ると、ユルームは、“妹” を自転車から突き飛ばし、自転車をこいでホテルに行くが、1台の軍用車も停まっていない。ドアを押し破って中に入り、ウォルトの部屋に行くが、そこはもぬけの殻(2枚目の写真)。ユルームは、ホテルを出た後、あちこち捜し回り、夕方になり、どしゃ降りの雨の中を家に戻ってくる。すると、干してあった洗濯物を “姉” が取り込んでいる。その中は、ウォルトの写真を入れたシャツも入っていた。明らかにユルームの不注意だが、ポケットの中の大切な写真は、ボロボロ、ドロドロになってしまった(3枚目の写真、矢印)。ユルームは 雨の中で立ち尽くして、むせび泣く。真夜中、雷の音で目を覚ましたユルームは、窓から見えるカカシの首に光る物を見つける。ウォルトの認識票だ! ユルームは、パジャマ姿のまま、それを取りに行くが、認識票と思ってつかんだものは、鉄条網の棘だった。ユルームはケガをして、その場に倒れる。翌日、ハイトはカカシを焼き捨てる。その時、地面に落ちていたサングラスに気付き、拾い上げる。一方、ユルームは、沖合の機体の上で、いなくなったウォルトを惜しむ(4枚目の写真)。こうしたエピソードは原作にはない。ユルームをあれほど強引に支配したウォルトは、ある日、突然いなくなる。ユルームは、最初、不審に思い、そして、いなくなったと分かると、ウォルトにされたことを懐かしむようになる(第2部9・10章
  
  
  
  

翌朝、棚の上に1通の手紙が置かれている(1枚目の写真)。ユルームは、いつも食事の前の祈りには参加しなかったが、今朝は、じっと手紙を見ている(2枚目の写真)。祈りが終わると、ハイトは棚から手紙を取り、封を破き、中味を取り出すと、「お母さんからの手紙だ。たぶん、君を引き取りに来られるんだろう」と言って渡す。そして、「読み上げてくれ。何が書いてあるか知りたい」と、食卓に着いた全員の前で訊く。しかし、ユルームは、手紙を叩き付けるように置くと、そのまま部屋を出て行く。ハイトは、ユルームが残していった手紙を読む。ユルームが海辺に座っていると、そこに、手紙を持ったハイトが近づいて来て(3枚目の写真)、何か語りかける。2人が戻ってくると、家から母が飛び出してくる。2人は抱き合う。「何て大きくなったの。寂しかったわ。もう、どこにも行かせない」。原作では、ユルームが手紙を見た時に思ったことは、「もし、手紙がアムステルダムからで悪い知らせだったら… 隣の人が、もう誰も生き残っていないと知らせてきたとか… ウォルトからの手紙の可能性もある… だけど、彼は、僕の名前〔家族名〕も住所も知らないし… 『フリースラント、ラークスム、ユルーム』だけで着くと思うけど」というものだった(第2部11章)。食事の席で、ハイトから、それがアムステルダムの父母からだと知らされると、「彼からじゃないんだ」と、がっかりする。映画のように、失礼にも黙って逃げ出したりはしないが、ハイトが手紙を読み上げている間じゅう、心ここにあらずで ぼうっとしている。
  
  
  

母は、感謝の心をこめてお土産を持ってきていた。それは、300年前に作られた本だった(1・2枚目の写真、矢印)。もし、それが聖書だとすれば、ハイトには何よりのプレゼントだっただろう。母は、息子が健康に大きくなったことを感謝し、それに対しハイトは、「何でもありません。我々の義務ですから」と答える(3枚目の写真)。原作では、土産など持っていかない。ただ、さすがに日帰りはせず、1泊して息子がどんな暮らしをしていたかを体験する(第2部12章)。
  
  
  

ハイトは、家に来たカナダ兵が落としていったものだから、と言ってサングラスを母に渡す。「後で、ユルームに渡してください」(1枚目の写真、矢印)〔ユルームは、47歳になっても、愛用している〕。母子は、自転車に乗り、別れを告げる。滞在時間は1・2時間くらい(2枚目の写真、矢印はユルーム)。ハイトが、「写真を送ってくれるか?」と声をかけると、ユルームは振り向くが(3枚目の写真)、何も言わない〔この時点では、まだスプールに巻き直した状態で、何枚助かったのかも分からない〕
  
  
  

アムステルダムへは船で直行する(1枚目の写真)。船に乗った12歳のユルームが、47歳のユルームに訊く。「何か訊きたいこと、ある?」(2枚目の写真)。「写真だ。私は、ハイトに言われたことを忘れてしまった」。「聞いたよ。だけど、僕、忘れたかったんだ」。「助かったのは、1枚の写真だけだった」。場面は、1980年に戻り、ユルームが、大きく引き伸ばされた集合写真を見るところで終わる(3枚目の写真)。
  
  
  

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